
技能実習生の青年を育てた理由
今、私の家には、かつて技能実習生として来日した青年が、結婚した奥さんと生まれたばかりの赤ちゃんと一緒に暮らしています。彼は来日して8年。私が3年間農業を教え、今では一つの家庭を築いています。
正直なところ、私はこれまで何百人ものミャンマー人技能実習生を見送ってきましたし、裏切られたと感じることも少なくありませんでした。もう会いたくないと思うほど疲れてしまったこともあります。それでも、この一人の青年だけは、自分の息子のような気持ちで育ててきました。
なぜそこまでしたのか。その理由は、私自身がこれまで歩んできた人生の中にあるように思います。まず私の人生を、次に今実際にやっていること、そして最後にこれから実現したい未来を、順番にお話しします。
アメリカを目指していた頃
私が生まれ育ったのは、かつてビルマと呼ばれていた国、ミャンマーです。医師や弁護士など、海外とのつながりを持つ人たちが国に出ていく。私が育ったのはそんな時代でした。私も同じ考えで、大学を卒業したら国を出て、もう戻らないつもりでいました。
当時、目指していたのはアメリカです。アメリカで精一杯働きたいという夢がありました。ミャンマーから直接アメリカへ渡るのは難しかったので、まずはタイに出て、そこから機会をうかがう計画を立てていました。
思いがけない出会いと、日本への旅立ち
ところが、通過点のはずだったタイで、人生は思いがけない方向に動きます。バックパックを背負って旅をしていた日本人男性と食事を共にする機会があったんです。そのときだけの縁だと思っていましたが、彼は、一週間も経たないうちに結婚を申し込んできたのです。
思いがけずその人と出会ったことで、私は結婚し、日本に来ることになりました。アメリカを目指していたはずの人生が、まったく違う方向へ進んだ瞬間でした。
農業との出会い
嫁いだ先は、茨城県の農村地帯でした。夫の実家は代々、人参やごぼう、かぼちゃなどを作る畑作農家です。夫自身は農業を継ぐ気などまったくなく、建築関係の仕事をしていましたが、私が嫁いで間もなく祖父が倒れ、長男である夫が農業を継がざるを得なくなりました。
周りの友人たちがメロンのハウス栽培で成果を上げていくのを見て、私たち夫婦もゼロからハウスを建て、メロン栽培を始めました。最初の三年は苦労の連続でしたが、五年目にようやく軌道に乗り、三人の娘にも恵まれ、それから二十年ほどメロン農家として歩んできました。
農業などまるで縁のなかった私が、この土地に根を張り、自分の手で農業を続けてこられたことは、今でも自分自身の支えになっています。
夫のがんと別れ
結婚から18年ほど経った頃、夫が胆嚢がんと診断されました。手術で一命はとりとめたものの、それまでのような激しい農作業はできない体になってしまいました。当時、娘は二人が大学生、一人が中学三年生。私はヘルパーの資格を取り、老人ホームで働きながら、夫に代わって畑にも立つようになりました。
収入が数か月に一度しか入らないメロンから、空心菜やパクチーといった、当時まだ日本ではあまり知られていないアジア野菜へと栽培を切り替えたのも、この頃です。まだパクチーは臭いと言われ、誰も口にしないような時代でしたが、あえてそこに賭けました。夫は農作業こそできなくなっていましたが、義母が野菜のパック詰めを手伝い、夫がそれを売り歩く。家族総出で乗り切った日々でした。
しかし、その平穏も長くは続きませんでした。震災のあった年、夫のがんが再発し、余命二年と告げられながら、実際には半年ほどで旅立ってしまいました。義母もあとを追うように亡くなり、その前後には私自身の入院や、海外で暮らしていた兄をがんで亡くすことも重なりました。
心がぼろぼろになってしまい、私はすべてを手放すように仕事を辞め、カナダやアメリカ、東南アジアを旅して歩きました。そうして二年ほど経ち、蓄えが尽きてきた頃、ようやく仕事をしなければと思い、日本へ戻ってきました。
通訳として見た日本とミャンマーの間
日本に戻った私に声をかけてくれたのが、ミャンマー人技能実習生向けの通訳の仕事でした。群馬、千葉、埼玉、福島、栃木、茨城——関東一円を自分の車で走り回る日々が始まりました。
そこで目にしたのは、農業とはまったく縁のなかった若者たちの姿です。他の国では農家出身の若者が出稼ぎに来ることが多いのに対し、ミャンマーから来る実習生の多くは、畑仕事の経験もないまま日本に来て、実際に手にする給料は、募集時に聞いていた額よりずっと少ない。そうした現実の中で、逃げ出してしまう実習生が後を絶ちませんでした。
日本のこともミャンマーのことも分かってしまうからこそ、どちらの言い分も理解できてしまい、板挟みになって苦しんだこともたくさんあります。それでも、東京で出会ったある一人の青年だけは、自分の息子のように引き取り、三年かけて農業を一から教えました。それが、冒頭でお話しした、今私の家で家族を築いている青年です。
農業法人としての現在
今の私は、決して大きなことをしているわけではありません。自分の畑を小さく続けながら、ミャンマーから来た人たちに農業を教える。それを地道に続けているだけです。数年前に農業法人を立ち上げましたが、正直に言うと、法人としての活動は今のところほとんどしていません。世界的な往来の制限や母国の情勢が重なり、当初思い描いていたミャンマーでの農業支援には、まだ着手できていないのが実情です。
今の私にできることは、ミャンマーの若者一人ひとりと丁寧に向き合い、農業の技術と、日本で生きていくための術を伝えていくことだと思っています。
野菜はたくさん作らなければ予算に合わず、経営そのものが立ち行かなくなってしまう。それが私の実感でもあります。理想だけでは経営は続きません。だからこそ、大きな出荷網を持つ生産者グループの方々ともつながりを持ちながら、無理のない範囲で少しずつ事業を続けています。
教育・医療・農業を横断した支援事業
私が生まれてから、母国は決して穏やかとは言えない時期が続いてきました。そのために若い世代の多くが国を離れ、耕す人のいない農地が数多く残されています。一方で、国を出ることができない、あるいは出ようとしない四十代、五十代の人たちも、まだたくさん残っています。そうした母国の姿を、私はずっと自分の目で見てきました。
私が思い描いているのは、自分がすべての畑を担うのではなく、支援を必要としている現地の人たちが、協同組合のような形で自らの力を発揮できる仕組みです。まだ構想の段階ですが、そうした動きに加わってほしいという声もいただいています。
その先に見据えているのは、教育・医療・農業を横断した支援活動です。ユニセフのような形で人々を支える活動をしたい、というのが私の一番の想いです。自分の生まれた国の困難な状況を、これまでずっと近くで見てきたからこそ、どちらか一方の立場に立つのではなく、まずは情勢の安定したタイを足がかりに、孤児院のような拠点をつくることを考えています。長年、自費で医薬品を届け続けてきた日本人医師のことを知り、私も自分なりに、小さくていいから母国に関わっていきたいと思っています。
まだ形になっていないことばかりです。それでも、メロン農家の嫁として畑に立ち、夫を看取り、通訳として国と国の間に立ち、一人の青年を育てた。そうした一つひとつの経験が、この願いへとまっすぐつながっていると、私は感じています。
会社名:農業法人ミャンマータナカー株式会社
代表者名:代表取締役/CEO 菊池絵里
住所:茨城県鉾田市勝下新田12番地
事業内容:
農産物、青果物、穀物類の生産、加工及び販売事業
ミャンマー国との農業交流を促進し、農業経営コンサルタント及び農業人材受入、育成事業
日本国及びミャンマー国での養鶏場経営及び鶏糞肥料の製造販売事業
設立年:令和3年6月30日
従業社員数:3人

















